曖昧な美のつぼみ #ふともも

曖昧☆ふともも写真館に行ってきた。
 

浅草橋のイベントを見て少し考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの – 妄想劇場館

 
写真展が開催されていることさえ知らなかった。この記事を読んで感動し、開催期間の終了が近いことを知った。
 
タイミングとは不思議な巡り合わせでやってくる。ちょうど東京に来る用事があったのだ。すぐにスケジュールアプリを起動させ、土曜日の夕方に「ふともも」と書いたのである。こんなに迷いの無い決断も久しぶりだったように思う。
 
太ももに象徴される若さや危うさを、わたしは花の蕾に見ているのかもしれない

 

ふとももは花のツボミ

f:id:kurit3:20150712090020j:image
 
ふとももについての考察は、上記リンクを読んでいただくのがいい。
 
花が咲くという現象を、わたしは何度か体験してきた。その奇跡の前には必ず、つぼみという状態がある。植物が葉を茂らせる様子は気持ちがいい。だが、つぼみの高揚感には遠く及ばない。
 
つぼみが表すのは、ただの成長ではない。つぼみは美(花)への変化を表すのだ。美しくなることが、半分くらい約束されている。その気持ちの高揚は、太ももへの昂りに等しいのだ。
 
f:id:kurit3:20150712084132j:image
 

花のツボミを守る

 
固く閉ざされた蕾が徐々に緩み、内側の花の色が滲み出る様子は、特に美しい。つい触りたくなるが、デリケートなのでぐっと堪えるのだ。こんなところも太もも的である。
 
ここで注意したいのは、虫である。太ももあるいはつぼみに群がる悪い虫、アブラムシだ。奴らが具体的にどんな悪さをしているのかは知らない。知りたくもない。ただ、汚わらしく醜いのが許せない。今日もわたしは使い古しの歯ブラシで、ミニバラの蕾に群がるアブラムシを駆逐する。
 
ふともも写真館を出たわたしは、正義感に燃えていたのだ。
 
2015,7 晴れ