ついにエダマメを収穫した。窒素固定根粒菌も観察できる。
夏、ビールのパートナー #エダマメ – 私的植物生活概論
豆が充実するのを待っていたら夏が終わってしまっていた。トマトと同じく「夏短すぎ問題」の当事者となってしまったのだ。休日の朝に収穫をして汗だくになり(もちろん真夏日だ)、体から失われた塩分を補うかのように、枝豆の塩茹でを食べる、という一連の目標はまたしても成らなかった。残念である
だが美味しかった。
調理と言っても、塩で茹でるだけなので工夫も何もいらない。待ちきれなくて茹で時間が短くなってしまった。若干硬い気がしたが問題ない。わたしは枝豆のと歯ブラシは「かため」が好きなんだ。シチュエーション的な補正が無いぶん、しっかりと味を確かめることができた。絶妙な塩加減(わたしがやったのだ)が豆の甘みを引き立てていて、とても美味しかった。
枝豆は塩茹でされるためにこの世に生み出されたのだと思う。
歩留まり調査
わたしはいちおう生産者目線も持っているので、収穫物の出来が気になるのだ。枝豆のさやに3粒入っている奴を最上品として、体感として4割くらいがこのランクであった。枝豆のエリートが4割、上出来と言えよう。器に盛られている状態から、そういう充実した奴からなくなっていく(枝豆あるある)。
2〜1粒入っている奴は並品、これが3割くらい。ちょっとがっかりする気持ちはあるが、一粒単位で言えば最上品とも勝負できるクオリティに仕上がっている。そして残りの3割は生育不足や不良だった(あえて言おうカスであると)。中には3粒入るだけの「さや」を作ったところで満足し、豆を持っていない奴もいた。
育てて捨てる
この3割は、流通に乗っかる前に弾かれる奴らだろう。自分で育てた奴らだから、何かこうもっと感情移入して、葛藤しながら捨てるかと思ったが、とくに感慨もなくはじいた。こうして観察して、文章化しているだけである。
その3割の奴らがこうして、植物とわたしの関係性を再確認させてくれた。植物はペットではない。奴らは生きているが、わたしも同様に生きている。それだけの関係だ。それ以上でもそれ以下でもない。だから奴らは弾かれたのだ。
2015,8 くもり