わたしは農家ではないので、出荷をしない。土との触れ合いだとか、週末のリフレッシュのために家庭菜園をやる気持ちもない。それでも、今年の春から近所に畑を借りて、複数の野菜作りに挑戦している。その中でもっとも期待しているのがエダマメだ。
もちろん美味しいビールを飲むのが目的である。他意はない。今年の夏は、朝に収穫したエダマメを塩茹でして、ビールと楽しむのを目標としている。当然、休日の昼間にやるつもりだ。『美味しいビールを飲む』というのは全ての根拠になり得ると思っている。念のため言っておくが、わたしはアルコール依存症ではない。(と、思いたい)
いったん16世紀に飛ぶ
シェイクスピアのハムレットには、こんな一節がある。
生きるべきか死ぬべきか。それが問題だ。
そもそも、この訳が適しているのか間違っているのか、それが問題だ。など諸説あるが、ここでは割愛させていただく。生きるべきか死ぬべきか。わたしは中学二年生ごろこんな感じに悩んでいたかもしれない。なんとか病とかいうやつだ。
わたしも男子の嗜みとして、そのなんとか病を患い、大学二回生ごろにはクラスチェンジし、わりと長く患ってきたと思う。本当の自分探しみたいなキーワードだ。いま思えば、この手の病から解放されるきっかけになったのが、こうやってアウトプットする作業と、植物を育てる作業だったように感じる。
植物を通してリハビリ
植物を育てるために、花を咲かせるためにどうすべきか。それが問題なのである。わたしが生きようが死のうが、植物の生育には何も関係がない。環境が整い花が咲けば、例外なく美しく、また例外なく死ぬ。そんな美しい結果も、水やりや日当たり、風通し、土壌の水はけ、肥料など地味な要因の積み重ねでしかない。陳腐な表現で恥ずかしいのだが、結局のところ毎日の繰り返しこそが大事なのだ。
植物を育てることを通して、不思議な病から足を洗ったわたしは、生きるべきか死ぬべきかなどと悩まない。本当の自分がどこにいるのかも重要ではない。もっと日々の生活のなかにこそ考えるべきこと、大事にするべきものがあると気づいたのだ。根底にあるものは、美味しいビールが飲めるかどうか。それこそが問題なのである。
エダマメを夏の根拠にしたい
そんな素晴らしく不純な動機で、マルチングを施した畑の畝に種を蒔いたのは約1ヶ月前だ。エダマメは発芽し、今では10センチほどの背丈になった。
合計6株なのでどの程度収穫できるのかわからない。少量の豆しか採れなかったとしても、わたしはそれを丹念に塩揉みし、一時も目を離さずに茹で上げるだろう。熱々の枝豆を口に入れると、いい感じの塩分が豆の香りと甘みを引き立て、噛むごとに楽しげな食感で身体が揺れる。追いかけるように冷たいビール(黒ラベル)を流し込み、わたしはきっとこう言うだろう。「っ…ああぁぁ…………」
念のため言っておくが、わたしはアルコール依存症ではない
万が一、台風や獣害その他諸々の不運が重なり全ての株がダメになってしまったら、その時は生きるべきか死ぬべきか、考えたいと思う。
2015,7 梅雨 くもり