江國香織の「きらきらひかる」を読んだ。わたしはてっきり、女性監察医の物語だと思っていたが、ホモの夫とアル中の妻の物語だった。恥ずかしながら、別物だということを知らなかった。
あのドラマがとても好きだ。仕事のカッコよさもさることながら、登場人物それぞれがいろんな過去を抱え、揺れながら生きていく姿が嫌味なく表現されていたように思う。松雪泰子演じる女性刑事の口癖「あたしを誰だと思ってんのよ」は、いつかどこかでお借りしたいと思って、あたためている。
今回はドラマではなく、小説の「きらきらひかる」の話をしたい。ストーリーの中で印象的に登場する、ユッカエレファンティペスという観葉植物についてだ。
普通じゃない夫婦とユッカの関係
物語の主役である夫婦、笑子と睦月。その結婚祝いに紺から贈られたのが、ユッカエレファンティペス。一般的には「ユッカ」や「青年の樹」などと呼ばれる観葉植物である。一見すると普通のエピソードだが、とても特殊な関係性を持っている。
- 精神的に不安定でアルコール依存の妻・笑子
- ホモで潔癖症で善良な夫・睦月
- 睦月の恋人(男性)・紺
夫の恋人から贈られたユッカエレファンティペスを「紺くんの木」と呼ぶ笑子は、ユッカを最初、以下のように評している。
大きくてとがった、まっすぐな葉っぱをどっさり茂らせているこの木は、どこか挑戦的な感じがする。
紺くんの木(ユッカ)は、水の代わりに紅茶、時にトマトジュース、またある時は小さじ1杯のラム入り紅茶、などを笑子に与えられる。笑子の奇抜な行動であるが、それはそれでとても自然な行為なのだ。
笑子は、この植木が紅茶党だと信じている。紅茶をやると、うれしそうに葉をふるわせるというのだ。
普通じゃないけど自然
笑子は普通じゃないのだ。普通じゃない妻を、睦月は大切に思っている。が、彼らの両親は笑子に普通の嫁を求め、友人は笑子に普通の母になることを勧める。両親や友人は極めて普通なのだ。結婚して子供を産んで、育てるのが自然な夫婦だと考えている。笑子も睦月も望んでいないにも関わらず、だ。それが、笑子や睦月を苦しめていくのだ。
「どうしてこのままじゃいけないのかしら。このままでこんなに自然なのに。」
このままでこんなに自然なのに。自然という言葉の定義はともかくとして、堂々とそう言った笑子に、僕は胸が一杯になってしまった。
自然な状態でいること
普通じゃないことに憧れた時期が誰にもあったと思う。わたしも、20そこそこの頃は尖ってたなぁ、と今では懐かしい。わたしは器用なところがあるので、望み通り普通じゃなくなったと思う。けど、不自然だった。普通でもなく自然でもない自分に戸惑い見失い、孤立し、完全に迷子だった。今度は、普通になりたいと、泣くほど強く願った。
そんな迷走の20代を終えようとしている今、自然な状態のわたしでいる時間が増えたように感じる。客観的に見て、わたしは普通じゃないと思うが、それは程度の問題なのだ。飛び抜ける必要もないし、普通の中に隠れる必要もない。
時間はかかったけれど、笑子と睦月(と紺)のように、相手を大事に思う自然な恋愛ができそうな気がしている。そして笑子とユッカエレファンティペスのような自然な関係で、植物と暮らしたい。
そういえば七夕ですね
ずっとこのままでいられますように。と笑子は短冊に願いを込め、七夕飾りと共に紺くんの木(ユッカ)につけるのだ。普通は七夕といえば笹なのだが、笑子にはそれが自然なのである。
2015,7 梅雨 小雨